九月十九日


喋りたがりなので隠していること以外はぜんぶ喋ってしまう、それで秘密がたくさんあると思われていて、実際あるのだけど、それは他人の守秘義務とわたしの精神衛生上の観点からの秘密なので、みなさんにはまったく、ぜんぜん関係のないことです、気にしないでください、しかしここ最近段々と詰があまくなってきて、守秘義務の方はまあいいとして、内緒だよ、とか、言わないでね、とか一言添えてもらえるとよりいいとして、精神衛生の方は緩みまくっている、年かしら、24歳でこれでは60歳くらいになったら自分もなにもあったものではない、口に布をあてて生きたい、それでなくともこんなに詰があまい人間だっただろうか、わたしはわたしなりに脆弱なのだから、わたしなりの強さは保持しないといけない、バランスが悪い、ちゃんと線を引かないとしぬぞ、社会復帰、社会復帰、これだって社会復帰のために書いているのだ、そうなのだ、口と心と現実をきちんと切り離さないと、言葉はあらゆる角度から取捨選択、嘘も方便、黙秘も発言、身体、距離、音量、音階、空間、関係、速度、媒体、見栄、私事、記憶、処理速度、知能指数、気まぐれ、失敗、いい加減さ、もてるかぎり活用して、伝えるのではなくシステムが回転すればよい、心のままに話すなんて欺瞞だ、俺の場合はだよ、ゆめゆめ、みな立ち位置を崩さぬよう、しっかりと、社会復帰、近頃の自分は自己中心的で、言葉の力なんか信じようとかしているのでは、俺が信じようが信じまいが言葉には力があるのだから、考えるのはそれをどう使うかということだけだ、これは受売だが、ほんとうにそのとおりだなあ、自己中はだめなので、ネジをしめよう、わたしがしあわせを感じるのはいい、たのしいくるしいもいい、お好きに、ただ自分の感情伝達のためだけに言葉を使うのを許してはいけない、そんなことでは言葉の方から呪いがふりかかりかねない、今まではもっとやさしかったはず、せめて他人のために枠組は提示していたはず、わたしの場合は、わたしの場合は、だよ、ゆめゆめ、各人適性をたがわぬよう、そういうふうにして、向こう側がみえる人は勝手にみればいい