九月三十日


氷のレコードというのが、いまはあるらしい、まわっているうちに溶けていって、もう曲の途中ではきちんときけなくなるらしい、まして二度目はまるでもってきけない、演奏する方は一度きりでやっているのだから、きく方も一度きりだって、一度再生したら消滅するメディアをと、デレク・ベイリーはたぶん半分投げたように言っていたのだと思うけど、ほんとうに一度しか再生できない媒体ができたよ、ベイリーのレコードあるいは音楽の複製媒体に対する態度は極めて微妙だが、すくなくともライブ至上主義ではまったくないし、録音するされる、媒体に載ることへの気持ち悪さはあまりないようにみえる、結局はライブはライブなりに気色が悪いので、キッチンだろうが、寺だろうが、スタジオだろうが、地下鉄だろうが弾いているところにリアルタイムにリアルのアクセス可能性が無造作にあるというのが、多くはないけれど、少なくない演奏家のイメージで、それがベイリーのイメージかどうかはしらないが、フリー・インプロヴィゼーションという言葉は今では1970年代のデレク•ベイリーだけの、広義にはデレク・ベイリーとハン・ベニンクの音のためだけの言葉になったとわたしは思うし、後年のデレク・ベイリーはかなしみがあふれすぎて、光り輝く未来にすらみえる、音楽によって音楽に立ち向かうというのがインプロヴィゼーションの軸であったとして、それは方法の濫用よりもはるかに美しく映るから、ランダムネスや予測不可能性やノン・イディオマティックなど初期以外はもう頭になかったのだといのる時には、その反対の方にデレク・ベイリーのもう一本の糸が貼られている、それで、どちらにしてもわたしたちのインプロヴィゼーションは謙虚に衰弱しながら呆けていく以外に道がないので、国会中継にあわせてギターを練習をしているデレク・ベイリーの像にあわせて小さな口を開きながら野球中継にあわせてギターを練習をするようなささやかな楽しみとして溶かしていく程度しか、使い道が思いつかない、今日思ったのはデレク・ベイリートーマス・マンは似ているということです