十二月二十七日


手を抜き放題の近頃、最初のうちこそバレないようにやろうとするものの、次第にその気もなくなるんだから、一人ずつ一事ずつ明るみになって、ほころびまくっている年末、冬の雹、新潟でも、まだ雪は積もらず、イルミネーションより先に不明瞭なネオン輪の総体は火の玉として映り、年賀状の懦弱な方は新年前に手渡し、30万ぽんと出て片付く身辺からまた出る錆を掃き掃除、本日はめずらしく空が高くからっとしていて、私事も公事もあまりにもごちゃごちゃしているため、なにかを書く時間はないのでブログはやめます、1月4日に記事はすべて削除します

十月八日


ディスクユニオン吉祥寺店でKaryobinがでたらしい、Karyobinがでた、とかいう物言いがもう遺跡か鉱物か油田みたいだが、7万円のそのレコードを買いにやはり始発で並びにきた人がいて、やや遅れてもう一人の採掘者がやってきて、開店前のディスクユニオン吉祥寺店ジャズ館には熱心なフリー・ジャズファンが二人並んでいたそうだが、二人目の絶望感は尋常ではなかったろうし、わざわざ店が開く前に電車を乗り継いでやってきて、ああ、並んでいる人がいる、となればそれはもう、殺すしかない、そうしないと買えないもの、どういう感じだったんだろう、話しかけたりするんだろうか、あ、Karyobinですか?わたしはKaryobinなんですけどね、とか言ったりしたんだろうか、廃盤LP一挙放出だったらしいから、もしかしたらこの人はKaryobinの人ではないのでは、いや、やっぱりそうだよな、そうだよなあ、とか黙々と俯いてまっていたり、もしや譲ってくれるのでは、などと変な方向に想像を膨らませたりしたのだろうか、とにかく、どんな感じだったのですか、二人で何時間もそういう状態にあるのは、一人目はいいよ、Karyobinのことだけ考えていればいいんだから、二人目は果てしなく長い時間だったろうに、一人目に対して愛憎入り混じった複雑な感情が入れ子的に立ち現れてきたのではないですか、ちがいますか、さておき、茄子がうまい、茄子がうますぎて感動して茄子ばかり食っていたら、茄子めっちゃ嫌いになったわ、朝昼晩、茄子、なす、ナス、ではもう途中から茄子というより、茄子という言葉を食っている気持ちになってきたわ、麻婆豆腐をだされても、なすうまいなあ、とか言って、そうして初期衝動で現実もなにもなくダメになるほど、最初の茄子はうまかった、それから自暴的に茄子をすりへらして、わたしの今年の茄子はおわりを迎えたわ、秋茄子は嫁に食わすなとか言ってないで、ちゃんと分けてあげながら、ほどほどに食べなよ、あと、月蝕をみたひと、ちゃんと見えたひと、東京は曇っていましたね、スイミーみたいな曇の空からほんの何分かだけとぎれとぎれに顔をだしていましたね、わたしはただただ自転車に腰をおろしてまっていただけで、月蝕はみんなのものでしたね、Karyobinにおいて重要なのはKaryobinの所有であるわけだから、それは一人目だけのもので、二人目以降は無にひとしく、茄子の場合は茄子の使用の問題だったが、わたしの中で茄子の終焉に向けて加速度的に転がっていく運動はとまらず、人がいればまた違ったのかもしれない、月蝕はみんなのもので、月は一個しかないから、それは綺麗だよね、と電話口で言われた、でも責任感とか感じてるのかな、と電話口で言われた、けれど月は所有物でも使用物でもないので、責任感はたぶんないし、俺の見立てでは、月はたぶんあほだと思う、少しオブラートに包んで言うと、月にはちょっとあほなところもあるのではないか、と月蝕をみて思った

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九月三十日


氷のレコードというのが、いまはあるらしい、まわっているうちに溶けていって、もう曲の途中ではきちんときけなくなるらしい、まして二度目はまるでもってきけない、演奏する方は一度きりでやっているのだから、きく方も一度きりだって、一度再生したら消滅するメディアをと、デレク・ベイリーはたぶん半分投げたように言っていたのだと思うけど、ほんとうに一度しか再生できない媒体ができたよ、ベイリーのレコードあるいは音楽の複製媒体に対する態度は極めて微妙だが、すくなくともライブ至上主義ではまったくないし、録音するされる、媒体に載ることへの気持ち悪さはあまりないようにみえる、結局はライブはライブなりに気色が悪いので、キッチンだろうが、寺だろうが、スタジオだろうが、地下鉄だろうが弾いているところにリアルタイムにリアルのアクセス可能性が無造作にあるというのが、多くはないけれど、少なくない演奏家のイメージで、それがベイリーのイメージかどうかはしらないが、フリー・インプロヴィゼーションという言葉は今では1970年代のデレク•ベイリーだけの、広義にはデレク・ベイリーとハン・ベニンクの音のためだけの言葉になったとわたしは思うし、後年のデレク・ベイリーはかなしみがあふれすぎて、光り輝く未来にすらみえる、音楽によって音楽に立ち向かうというのがインプロヴィゼーションの軸であったとして、それは方法の濫用よりもはるかに美しく映るから、ランダムネスや予測不可能性やノン・イディオマティックなど初期以外はもう頭になかったのだといのる時には、その反対の方にデレク・ベイリーのもう一本の糸が貼られている、それで、どちらにしてもわたしたちのインプロヴィゼーションは謙虚に衰弱しながら呆けていく以外に道がないので、国会中継にあわせてギターを練習をしているデレク・ベイリーの像にあわせて小さな口を開きながら野球中継にあわせてギターを練習をするようなささやかな楽しみとして溶かしていく程度しか、使い道が思いつかない、今日思ったのはデレク・ベイリートーマス・マンは似ているということです



九月十九日


喋りたがりなので隠していること以外はぜんぶ喋ってしまう、それで秘密がたくさんあると思われていて、実際あるのだけど、それは他人の守秘義務とわたしの精神衛生上の観点からの秘密なので、みなさんにはまったく、ぜんぜん関係のないことです、気にしないでください、しかしここ最近段々と詰があまくなってきて、守秘義務の方はまあいいとして、内緒だよ、とか、言わないでね、とか一言添えてもらえるとよりいいとして、精神衛生の方は緩みまくっている、年かしら、24歳でこれでは60歳くらいになったら自分もなにもあったものではない、口に布をあてて生きたい、それでなくともこんなに詰があまい人間だっただろうか、わたしはわたしなりに脆弱なのだから、わたしなりの強さは保持しないといけない、バランスが悪い、ちゃんと線を引かないとしぬぞ、社会復帰、社会復帰、これだって社会復帰のために書いているのだ、そうなのだ、口と心と現実をきちんと切り離さないと、言葉はあらゆる角度から取捨選択、嘘も方便、黙秘も発言、身体、距離、音量、音階、空間、関係、速度、媒体、見栄、私事、記憶、処理速度、知能指数、気まぐれ、失敗、いい加減さ、もてるかぎり活用して、伝えるのではなくシステムが回転すればよい、心のままに話すなんて欺瞞だ、俺の場合はだよ、ゆめゆめ、みな立ち位置を崩さぬよう、しっかりと、社会復帰、近頃の自分は自己中心的で、言葉の力なんか信じようとかしているのでは、俺が信じようが信じまいが言葉には力があるのだから、考えるのはそれをどう使うかということだけだ、これは受売だが、ほんとうにそのとおりだなあ、自己中はだめなので、ネジをしめよう、わたしがしあわせを感じるのはいい、たのしいくるしいもいい、お好きに、ただ自分の感情伝達のためだけに言葉を使うのを許してはいけない、そんなことでは言葉の方から呪いがふりかかりかねない、今まではもっとやさしかったはず、せめて他人のために枠組は提示していたはず、わたしの場合は、わたしの場合は、だよ、ゆめゆめ、各人適性をたがわぬよう、そういうふうにして、向こう側がみえる人は勝手にみればいい


九月九日


3時起床、室生犀星より2編録音、ひまなので散歩、大久保通りを進み牛込柳町を折れて夏目坂に入り、早稲田の手前で引き返し、肉まんを買い、6時帰宅、宮沢賢治を読めなかった人のうち何人かが室生犀星を読むんだよ、風呂をためて、つかって、でて、部屋の中はひどい有様だが、週末に人がくるからって、どうせそのとき掃除するから、二階堂奥歯より1編録音、メールがきたりして、寝転んで、金魚を飼おうかと調べる、金魚鉢はあまり金魚によくない、それでも金魚鉢がよい、楽天でみていた金魚鉢はどれもこれも思いのほかちいさく、眠って、布団を噛んでいたから、涎がすごくでている、金魚鉢は金魚を飼うための箱ではないのです、金魚を眺めるための容器なんだよ、金魚の中には水流を好む金魚がいて、そいつらは特に金魚鉢なんかに入れてはだめ、まったりした金魚がいるから、そいつをときどきうつして浮かばせておやり、かつて庭池には様々な金魚たちがいたが、冬がくると池はこおり、しぬ、春にはまた誰かが金魚をかいあたえ、毎日々々餌を落とす役割のわたしだけがすすむ、それでも幾匹かは越冬し、なぜなら氷は池の表面にはり、その下はたぶん刺すように冷たい水だったので、金魚はこおればしぬ、が、動くものに氷ははらない、自分が大喰らいだったもので、いつも袋に書かれているよりたくさん餌を投げた、肥料のように、鳥糞のように散る、雨滴のように沈む、かなしい、金魚は食いだめはできないんだよ、胃がないから、腸はあるけどね、冬はほんの少しだけ動くんだよ、こおらないように、食べなくていいように、ときどき共食いを、しないという人もいるが、する、たくさんいると数が減る、大きい金魚が小さい金魚を食べるか、一部を齧りとるか、病気でしんだものが少しずつついばまれ、ざんこくだ、ざんこくだろうか、金魚に興味がなかった、しんださんごがぽつんと庭池の端におり、そちらに興味があった、持ちあげたり落としたりしていた、さんごにはこけがある、何日も何日も餌をやらないときには、金魚たちはそのこけをたべて生きる、休日には、池の水を抜き、デッキブラシでぬめりをこすっている、さんごさえもこすられている、さんごは、岩だとおもっていた、金魚は、金魚鉢ではなく、バケツにうつしかえられて、また庭池にもどった